
鎖骨にそってシャーペンで書いたような切り傷。
しかし何故鎖骨が見えるのか?
つまり、それは?
つまりこの板前、上半身が裸だったということになる。
ようやくそんな大きなことに気付く。
結局、裸に気付いたことに感動し、
奇妙にイキのよかった魚の味も憶えていない。
そもそもそれを食べたのかどうかも。
憶えているのは漬け物。
お盆の上に酒升に山盛りにされたキャベツの浅漬け。
それを上半身裸(だったのだろう)の彼にカウンター越しに渡され、
こう言われた。
「これ、PHANTOMって言う店に届けて」
「ついでに今晩のお通夜の時間も聞いてきてくれないかな?」
PHANTOMという店を偶然にも知っていた。
この店に入る前に鮮やかなレモンイエロー地に小さな文字で
真ん中にちょこんとPHANTOMと書かれた電飾看板を憶えていたからだ。
あの店か。知ってる、知ってる。
お盆の上の浅漬けを持って、僕は階段を下り店を出た。
アジアというか昭和な人通りの多い路地商店街。
おのおのの店から出ている優しい光に抱かれ足が浮く。
しかし目と鼻の先にあるはずのPHANTOMはやはりなかった。
動脈のような商店街の中ををぐるぐる探すと、
屋根の隙間から青くそびえる高層ビルが時折見える。
たまらず通りがかりの男に聞いた。
「あの、PHANTOMってどこでしたっけ?」
「PHANTOM? ハンズに抜ける道だ?」
よく分らないけれど、ここ渋谷のようだ。
男が全部言い終わらないうちに、僕は男の指差した方向に歩き出す。
目の前の景色は渋谷とはかけ離れた、
見慣れたパターンとは全く違う街並にもかかわらず、
僕はさも確信しているかのように、徐々に小走りになっていた。