
隣村の太一くんが「禅とオートバイ修理技術」という、
タイトルだけでお腹一杯な本を貸してくれて読んでおります。
ちょっと読んだだけで、
これは自分の歯車とガチっと噛み合う本だってのがわかった。
あっちが回ると、当然こっちも同じスピードで回る。
文章だけがサラサラと流れるでもなく、
自分だけが必要以上に考えてしまうでもなく、同じスピードで。
こういう本は滅多にない。
その序文のなかに(本文の内容とは全くの無関係なんだけれど)
古代ギリシャの時間論について書いてありました。
彼らは未来を自分達の背後からくるものとみなし、
過去を眼前から後退するものとみなした、そうです。
未来には直面できる人は居ないけれど、
自分の眼前に広がるのは過去でしかない、と。
確かにそっちの方が言い得てるかもしれないけれど、
なんかギリシャ先輩、ちょっと受け身すぎるような気がするわぁ。
でも、ここまで書いて、ちょっと意味が違うのかも?と気がついた。
つまり、風下に流れる過去は、風上である現在の自分が反映されてるってこと?
なるほどね。と。
でもさ、でもさ、アタイね、
やっぱり未来は前から来るって考えた方がしっくりくるわ。
それはそうと、この本には数多くの感電ビリビリなシビれる一節があるんですが、
最後その中の1つを。
ブッダや神が花びらや山の頂に住んでいるのと同じように、
デジタル・コンピューターの回路やバイクの変則ギヤの中にも
そのまま真理が宿っているのである。
そう考えなければ、ブッダの品位を汚すことになる。
ちびった。
++++DSK++++